2021年4月28日水曜日

朝鮮駆魔師

 



 

 

韓国には、地上波のテレビ局が3社あります。

国営のKBS、共営のMBC、そして唯一の民営テレビ局であるSBSです。

民営のSBS2021322日に第一話が放送されたドラマ「朝鮮駆魔師」が放送開始早々、視聴者やネティズンの間に物議を醸した末、僅か一週間後に放送中止される事件が起こりました。

この一件は、韓国社会におけるネットの影響力と近年、韓国民衆の間で広まっている反忠情緒を投影した出来事とも言えます。

それでは事件のいきさつを説明しましょう。

 

ドラマ「朝鮮駆魔師」の概要          

李氏朝鮮の太宗11(1411)、フクロウが昌德宮に表れて鳴くと、これを不吉と見た太宗は、解怪祭を行うよう命じた 「太宗実録21巻」

 

「朝鮮王朝実録」太宗実録に上記の出来事が記されています。

フクロウを追い払うため、解怪祭という儀式を行ったとの記録ですが、この1行だけの記録を元に「もし、そのフクロウが象徴するのは悪霊だったら」と、想像力を発動して書いたのがこのドラマのあらすじです。

2000年以降に制作された韓国の時代劇は大抵がこういった所謂ファンタジー歴史劇の形をとっています。李氏朝鮮に関する史料は、その殆どが「朝鮮王朝実録」という膨大な記録から抜粋しており、実録に書いてある12行のある出来事に想像力を加味して一つの作品を書き上げるトレンドになっています。10年くらい前に日本でも大ヒットした「宮廷女官チャングムの誓い」も同じでした。チャングムは実在人物でしたが、朝鮮王朝実録での記載はたった1行に過ぎず、ドラマの内容は完全なるフィクションです。

 

「朝鮮駆魔師」の話に戻ると、太宗の息子二人、忠寧と讓寧が主人公になっており、明朝を通して西洋の神父も来国するというストーリーになっています。オカルトの好きな人には面白そうな内容ですね。

 

ネット炎上             

実は、ネットで炎上が始まったのは、ドラマが放送始める前からです。

ドラマの予告編が流れると、ネット上では、ドラマ作家の履歴を問題視する声が浮上しました。作家の朴繼玉が、以前執筆した「哲仁王后」は、中国のウェブ小説を韓国版にリメイクしたものでしたが、「李氏朝鮮の歴史を侮辱する」との批判がネットで勃発したことがありました。ネットでは彼を中国の「東北工程」に従う人物と烙印つけ、「朝鮮駆魔師」が書かれる前から既に反中の人々から目をかけられていたのです。

そんな中、第1話の放送が流れた日、すぐさまネットには批判の声が殺到しました。

彼のことが手嫌いな者たちは粗探しをして、揚げ足を取ろうと、理不尽な言いがかりをつけてきたのです。中でも次の2点が特に焦点になりました。

 

太宗による百姓虐殺

李氏朝鮮の地盤を構築したともいえる太宗が百姓を殺戮したとドラマの中で言及されますが、この部分が「我が国の偉人を蔑む行為」と公憤を招きました。

太宗は現代韓国で歴史上最高たる偉人として崇拝されている「世宗(忠寧)」の父でもあり、李氏朝鮮王朝の中で最も重要な人物の一人ですので、彼を蔑んだと反応すれば、ネットでの同調が得やすかったです。

 

忠寧が西洋の神父を接待するシーン

第一話に、中国からきた西洋の神父を妓生屋で接待するシーンがあります。

その際、使われた妓生屋の構造が中国風であることと月餅や饅頭などの中国の食べ物が登場したことが、大きく問題視されました。最近、韓国ドラマは中国資本を受けて制作されるケースが多く、中国側の意図がドラマの内容に反映されたりしますので、そういった現象をよく思わない韓国人が多かったのです。

 

放送中止決定              

このドラマは、月火と週二回放送されるものでしたが、第一話放送が終わった途端、ネット炎上が巻き起こり、二話が終わったころには論争が激化し、収拾がつかないほどになります。それで、ドラマに出演した俳優陣は次々とSNSに「役を受ける際、慎重に考えるべきでした。国民の皆さんにご迷惑をかけて申し訳ございません」と謝罪文を掲載します。

次いで、ドラマのスポンサー企業たちもとばっちりを食うことを恐れて次々とスポンサー契約の取り消しを発表します。勿論、ドラマ作家の朴繼玉氏も謝罪文を掲載しました。

それでも、ほとぼりは収まらず、更にエスカレートするので、とうとうテレビ局自らも放送中止を決定しました。

 

ネットによる検閲問題                

このドラマを巡る一連の事件は、ネット世論が社会に与える影響力が増大したことを示唆するものでした。ネット世論にテレビ局が屈服し、ドラマの内容を自制検閲した格好になってしまったので、このままでは、表現の自由が著しく害されると、一部の有識者は、こういう現象を危惧する記事を出しましたが、ネットの雰囲気を替えることはできません。

そもそも、韓国の時代劇は、一般的に時代考証がでたらめということで有名なので、今回の「朝鮮駆魔師」だけを特別問題にするのは合理性がないです。月餅とか饅頭が外国からの賓客にもてなされたとしてもおかしな設定ではないのです。

やはり、問題の本質は、世間の多数人の気に障ったところです。近年、韓国の外交、経済、芸能において中国の影響力は日に日に増しており、過去中国は500年もの間、自国を支配していた事実に気づいている韓国の若者が増えています。

日本の勢いがすごかった時代は、嫉妬の念が日本に向いていた、今は中国の方にも向くようになったわけです。

 

2021年4月24日土曜日

1982年、韓国プロ野球の発足

 

韓国でプロ野球のリーグが始まったのは1982年です。

19791026日、当時大統領だった朴正熙が側近により暗殺されました。そのどさくさに紛れて、素早い行動で権力を手にしたのが、陸軍本部保安司令官だった全斗煥です。

彼は、198091日に新しい大統領として就任すると、国民生活の質を向上するとの大義名分で、プロ野球の創設を決定しました。周りでは、当時韓国の経済規模からみて、プロ野球リーグの運営は無理だと、懐疑的な雰囲気でした。ところが、軍事独裁政権であるが故の猪突的な推進力で、僅か1年余りの準備期間を経て、19824月にリーグ開幕を迎えたのです。

 

発足当時は、6チームでした。

 

 





三星ライオンズ(Samsung Lions

本拠地:慶尚北道

 







ロッテジャイアンツ(Lotte Giants

本拠地:慶尚南道



 



ヘテタイガーズ(Haitai Tigers

本拠地:全羅南道・全羅北道



 




OBベアーズ(OB Bears

本拠地:忠清南道・忠清北道 ※1984年ソウルに移転

 






三美スーパースターズ(Sammi Superstars

本拠地:京畿道・江原道

 






MBC青龍(MBC Cheongryong

本拠地:ソウル

 

プロ野球リーグの発足前も、セミプロの実業野球リーグが既に存在しておりましたが、その実業団チームを所有していた企業の中で2社がプロ野球リーグへの参加を名乗り出ました。

それが三星とロッテです。

※三星グループの系列会社である第一毛織が実業団野球チームを運営していました。

 

参入の許可及びフランチャイズ地域配分は当局がすべての決定権を握っていました。

ロッテは、当初、ソウルを本拠地として希望しましたが、当局の責任者は日本の読売ジャイアンツを似せてテレビ局に一番大きい市場であるソウルを任せようとしたため、ロッテの申請は却下され、代わりに会社オーナーである辛俊浩(重光武雄の弟)の故郷を与えました。

他のチームも大抵親会社オーナーの出身地か起業地をフランチャイズとして割り当てられました。

 

全羅南道・全羅北道の場合は、希望球団が表れなかったため、当局が強制的に参入を押しつけたケースです。

 

選手の収拾については、フランチャイズ所在の高校を卒業した者は該当球団が指名する権利を持つことにしました。

 

初年度はチーム当り年間80試合のスケジュールで行いました。

前・後期に分け、前期リーグの優勝チームと後期リーグの優勝チームが韓国シリーズにて年間チャンピオンを争うシステムでした。

 

6チームのうち、2チームの監督が日本プロ野球出身者でした。

1962年から1981年の間、東映フライヤーズなどでプレイした白仁天がMBC青龍の監督に、1956年から1963年の間、南海ホークスでプレイした金彦任重がOBベアーズの監督に就いたのです。

 

特に、OBには、金彦監督の他、京都出身の在日である金星根も投手コーチを務めていました。金星根は日本ではプロ野球の経歴がないものの、社会人野球チームの相互交通で1年間プレイしたことがあります。

 

OBの本拠地である忠清道は野球の名門高校の出現が他地域より遅かったため、1982年の時点でチームを構成するには、人的資源が不足していました。よって相対的に人材が多かったソウルから支援を受けることになったのです。ソウルの高校出身者の3分の1の選手の指名権をMBCOBに譲る形になったのですが、具体的には、MBC2人を先に指名し、次にOB1人を指名する。これを繰り返していく21のドラフト方式でした。

 

こういった事情から、シーズ開幕前は、誰もがOBの最下位を予想していたのです。

ところが、蓋を開けてみると、開幕からOBがペナントレースを独走し、前期リーグを優勝します。後期リーグに入っては、エースの朴哲淳を休ませ、控えの選手たちを主に使っていたので、1ゲーム差で優勝を逃します。

後期リーグで優勝したのは、韓国代表メンバーが多数布陣していた三星ライオンズでした。

元々、シーズが始まる前は、三星は圧倒的な優勝候補だったのです。両チームは74先勝制の韓国シリーズで激突して、OB41引き分け1敗で優勝を決めます。

 

三星(Samsung)は、韓国を代表する財閥で、少なくとも国内では必ず1位にならないといけないという社内方針があったため、プロ野球元年の優勝を逃すとたちまちグループ監査を行うことになります。

監査の結果、OBが優勝したのは、日本の先進野球を取り入れたからだという結論を出しました。つまり、元在日の野球人が二人もいたからだということでした。

それで、三星も翌年は在日の山本忠男を助監督として迎え入れることになります。

2021年4月15日木曜日

日本から伝わった野球

 

日本以外にアジアで野球が盛んな国といえば、まず韓国と台湾が挙げられます。

他のアジアの国々は野球が浸透していなかったのに、なぜ、この両国だけに野球が定着したでしょうか?

 

それは、両国が戦前日本の統治下にあったためです。

野球の人気が高い日本の影響を受けて、統治下の韓国(朝鮮)と台湾には多くの学校に野球部が創設され、甲子園にも参加していたのです。

又、日本の統治下ではなかった「満州帝国」の学校も甲子園に参加していました。

 

朝鮮と満州が1921年から、台湾はその2年後の1923年から甲子園の予選に参加を始め、1940年まで続きました。

 

2015年に日本でも公開された台湾映画「KANO 1931海の向こうの甲子園」は、1931年の大会で準優勝を果たした「嘉義農林」野球部の物語です。外地の学校としては「嘉義農林」の準優勝が最高成績でした。

韓国勢としては、釜山商業(1921)、徽文高普(1923)、京城商業(1934)が成し遂げたベスト8が最高成績です。

 

ところが、韓国では、戦前の甲子園のストーリーを扱う文学作品や映画などが未だに見当たりません。理由は、台湾と違って反日情緒が強いからです。今の韓国では野球が国内人気ナンバーワンのスポーツなので、その国民的スポーツが日本から伝わったと明かすのは、反日の人々にとってはとても不都合なわけです。

それで、韓国のマスコミや学校では、アメリカ人の宣教師「Gilbert」が1905年に始めて野球を朝鮮半島に普及したと教えています。

2002年に韓国で製作された映画「爆烈野球団!」は、こういった捏造された歴史認識の下で造られたものです。

 






Gilbertが当時、朝鮮半島で野球試合を行った記録はありますが、あくまでも単発的な行事に過ぎなく、野球を普及したとは言えないです。

 

2021年4月14日水曜日

百済

 


5世紀~6世紀頃の朝鮮半島の勢力図(Wikipedidaより)

韓国の歴史教科書には、この時代を高句麗、百済、新羅からなる「三国時代」という表現を使う。

百済の地には、元々「馬韓」という国があった。部族連合体の形を帯びており、複数の首長がいたと思われる。「後漢書」には、衛満に国を簒奪された準王が南方に移り、馬韓を支配したとも記されている。「梁書」によると、馬韓には54国があり、その中の一国が大きくなり、百済になったと伝わる。

百済の領地については、上の地図のように、現在の全羅道・忠清道と京畿道の一部であったと韓国の歴史教科書に載っている。発祥の地については、ソウルの近く(慰礼城)にあったというのが定説として語られている。

 

「三国史記」には、百済の建国について「温祚説話」と「沸流説話」の二つの説を紹介している。

 

 

まず、「温祚説話」について、

朱蒙が北夫余から卒本夫余へ逃れた頃、卒本夫余王には3人の娘がいたが、男児はいなかった。朱蒙が王の次女を娶り、二人の息子を儲けた。

兄の名は沸流で、弟の名は温祚である。後に朱蒙が高句麗を建国し、二人の兄弟は王位を継ぐ有力な候補であった。

ところが、朱蒙が北夫余にいた時期に生まれた子の瑠璃が朱蒙の下を尋ねてきたので、朱蒙は彼を太子に定めた。

沸流と温祚は、将来のことを危ぶみ、新しい地を求めて南下した。

一行が漢山へたどり着いてから、どこを都とするかについて、意見が対立して、二人は分かれ、沸流は弥鄒忽(現在の仁川)、温祚は慰礼城に定着した。この時期が紀元前18年である。

沸流が選んだ土地は塩分が強く、安らかに暮らすことができなかった。沸流は自分の決定を恥じて死んでしまい、彼の家臣たちは皆慰礼城に帰属した。

 

一方、「沸流説話」について

上記の説が、温祚を百済の始祖とするのに対して、これは沸流を始祖とするものである。

ここでは、二人の兄弟が朱蒙の子ではなく、北夫余の優台という人物が父として登場する。

優台は、北夫余王解扶婁の庶孫であったが、召西奴という卒本夫余出身の女を娶った。

二人の間に、沸流と温祚が生まれた。

優台の死後、召西奴は子供たちを連れて卒本夫余へ戻って暮らしていた。

後に、朱蒙が北夫余から卒本夫余へ逃れてきて、高句麗を建国し、召西奴を王妃として迎えた。

この後は、「温祚説話」と同様に瑠璃が北夫余から高句麗にきたため、二人の兄弟は南方に移った。違いは、二人とも弥鄒忽に定着したところである。