韓国でプロ野球のリーグが始まったのは1982年です。
1979年10月26日、当時の大統領だった朴正熙が側近により暗殺されました。そのどさくさに紛れて、素早い行動で権力を手にしたのが、陸軍本部保安司令官だった全斗煥です。
彼は、1980年9月1日に新しい大統領として就任すると、国民生活の質を向上するとの大義名分で、プロ野球の創設を決定しました。周りでは、当時韓国の経済規模からみて、プロ野球リーグの運営は無理だと、懐疑的な雰囲気でした。ところが、軍事独裁政権であるが故の猪突的な推進力で、僅か1年余りの準備期間を経て、1982年4月にリーグ開幕を迎えたのです。
発足当時は、6チームでした。
三星ライオンズ(Samsung Lions)
本拠地:慶尚北道
ロッテジャイアンツ(Lotte Giants)
本拠地:慶尚南道
ヘテタイガーズ(Haitai Tigers)
本拠地:全羅南道・全羅北道
OBベアーズ(OB Bears)
本拠地:忠清南道・忠清北道 ※1984年ソウルに移転
三美スーパースターズ(Sammi Superstars)
本拠地:京畿道・江原道
MBC青龍(MBC Cheongryong)
本拠地:ソウル
プロ野球リーグの発足前も、セミプロの実業野球リーグが既に存在しておりましたが、その実業団チームを所有していた企業の中で2社がプロ野球リーグへの参加を名乗り出ました。
それが三星とロッテです。
※三星グループの系列会社である第一毛織が実業団野球チームを運営していました。
参入の許可及びフランチャイズ地域配分は当局がすべての決定権を握っていました。
ロッテは、当初、ソウルを本拠地として希望しましたが、当局の責任者は日本の読売ジャイアンツを似せてテレビ局に一番大きい市場であるソウルを任せようとしたため、ロッテの申請は却下され、代わりに会社オーナーである辛俊浩(重光武雄の弟)の故郷を与えました。
他のチームも大抵親会社オーナーの出身地か起業地をフランチャイズとして割り当てられました。
全羅南道・全羅北道の場合は、希望球団が表れなかったため、当局が強制的に参入を押しつけたケースです。
選手の収拾については、フランチャイズ所在の高校を卒業した者は該当球団が指名する権利を持つことにしました。
初年度はチーム当り年間80試合のスケジュールで行いました。
前・後期に分け、前期リーグの優勝チームと後期リーグの優勝チームが韓国シリーズにて年間チャンピオンを争うシステムでした。
6チームのうち、2チームの監督が日本プロ野球出身者でした。
1962年から1981年の間、東映フライヤーズなどでプレイした白仁天がMBC青龍の監督に、1956年から1963年の間、南海ホークスでプレイした金彦任重がOBベアーズの監督に就いたのです。
特に、OBには、金彦監督の他、京都出身の在日である金星根も投手コーチを務めていました。金星根は日本ではプロ野球の経歴がないものの、社会人野球チームの相互交通で1年間プレイしたことがあります。
OBの本拠地である忠清道は野球の名門高校の出現が他地域より遅かったため、1982年の時点でチームを構成するには、人的資源が不足していました。よって相対的に人材が多かったソウルから支援を受けることになったのです。ソウルの高校出身者の3分の1の選手の指名権をMBCがOBに譲る形になったのですが、具体的には、MBCが2人を先に指名し、次にOBが1人を指名する。これを繰り返していく2:1のドラフト方式でした。
こういった事情から、シーズ開幕前は、誰もがOBの最下位を予想していたのです。
ところが、蓋を開けてみると、開幕からOBがペナントレースを独走し、前期リーグを優勝します。後期リーグに入っては、エースの朴哲淳を休ませ、控えの選手たちを主に使っていたので、1ゲーム差で優勝を逃します。
後期リーグで優勝したのは、韓国代表メンバーが多数布陣していた三星ライオンズでした。
元々、シーズが始まる前は、三星は圧倒的な優勝候補だったのです。両チームは7戦4先勝制の韓国シリーズで激突して、OBが4勝1引き分け1敗で優勝を決めます。
三星(Samsung)は、韓国を代表する財閥で、少なくとも国内では必ず1位にならないといけないという社内方針があったため、プロ野球元年の優勝を逃すとたちまちグループ監査を行うことになります。
監査の結果、OBが優勝したのは、日本の先進野球を取り入れたからだという結論を出しました。つまり、元在日の野球人が二人もいたからだということでした。
それで、三星も翌年は在日の山本忠男を助監督として迎え入れることになります。
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