5世紀~6世紀頃の朝鮮半島の勢力図(Wikipedidaより)
韓国の歴史教科書には、この時代を高句麗、百済、新羅からなる「三国時代」という表現を使う。
百済の地には、元々「馬韓」という国があった。部族連合体の形を帯びており、複数の首長がいたと思われる。「後漢書」には、衛満に国を簒奪された準王が南方に移り、馬韓を支配したとも記されている。「梁書」によると、馬韓には54国があり、その中の一国が大きくなり、百済になったと伝わる。
百済の領地については、上の地図のように、現在の全羅道・忠清道と京畿道の一部であったと韓国の歴史教科書に載っている。発祥の地については、ソウルの近く(慰礼城)にあったというのが定説として語られている。
「三国史記」には、百済の建国について「温祚説話」と「沸流説話」の二つの説を紹介している。
まず、「温祚説話」について、
朱蒙が北夫余から卒本夫余へ逃れた頃、卒本夫余王には3人の娘がいたが、男児はいなかった。朱蒙が王の次女を娶り、二人の息子を儲けた。
兄の名は沸流で、弟の名は温祚である。後に朱蒙が高句麗を建国し、二人の兄弟は王位を継ぐ有力な候補であった。
ところが、朱蒙が北夫余にいた時期に生まれた子の瑠璃が朱蒙の下を尋ねてきたので、朱蒙は彼を太子に定めた。
沸流と温祚は、将来のことを危ぶみ、新しい地を求めて南下した。
一行が漢山へたどり着いてから、どこを都とするかについて、意見が対立して、二人は分かれ、沸流は弥鄒忽(現在の仁川)、温祚は慰礼城に定着した。この時期が紀元前18年である。
沸流が選んだ土地は塩分が強く、安らかに暮らすことができなかった。沸流は自分の決定を恥じて死んでしまい、彼の家臣たちは皆慰礼城に帰属した。
一方、「沸流説話」について
上記の説が、温祚を百済の始祖とするのに対して、これは沸流を始祖とするものである。
ここでは、二人の兄弟が朱蒙の子ではなく、北夫余の優台という人物が父として登場する。
優台は、北夫余王解扶婁の庶孫であったが、召西奴という卒本夫余出身の女を娶った。
二人の間に、沸流と温祚が生まれた。
優台の死後、召西奴は子供たちを連れて卒本夫余へ戻って暮らしていた。
後に、朱蒙が北夫余から卒本夫余へ逃れてきて、高句麗を建国し、召西奴を王妃として迎えた。
この後は、「温祚説話」と同様に瑠璃が北夫余から高句麗にきたため、二人の兄弟は南方に移った。違いは、二人とも弥鄒忽に定着したところである。
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