前回、1982年の韓国プロ野球リーグ発足について語りましたが、今回は、玄界灘を渡って韓国プロ野球に進出した在日野球選手たちの話をしようと思います。
韓国プロ野球の元年である1982年、既に白仁天・金彦任重といった二人の日本プロ野球経験者が監督として参加していましたが、現役の在日野球選手の韓国プロ球団への入団はありませんでした。まだ、在日選手を受け入れる制度も整ってなかったのです。
白仁天は、監督兼選手として活躍しましたが、彼の場合、北朝鮮生まれで、朝鮮戦争の後、韓国に定着したケースで在日ではないです。
在日選手の韓国プロ野球チーム入団の道が開いたのは、翌年の1983年でした。
発端は、張本勲氏がKBOへ「日本プロ野球を解雇された在日野球選手たちを韓国球団が受け入れてくれないか」と打診したことです。
1982年に広島カープから解雇された福士敬章が現役続行を希望し、韓国プロ野球へ移籍したいと張本に相談したところ、KBO(韓国プロ野球委員会)に顔がきく張本がつなげってくれたのです。続いて、同じく広島から解雇された木山英求・木本茂美と阪神の宇田東植も加わります。
計4名の在日プロ野球選手が韓国プロ野球団へ入団することになったのですが、当時、KBOは前年度の成績順で1球団2名ずつ契約交渉権を与えました。最下位だった三美スーパースターズが福士・木山の交渉権を、6チーム中5位だったヘテタイガースが木本・宇田の交渉権を得ました。これを契機に、1984年からは各チームは2名までの在外同胞を試合エントリーに登録できるというルールが策定されます。
話を在日選手受け入れの元年である1983年に戻すと、当年で一番活躍したのは、断然福士投手でした。彼は60試合に登板し、427.1イニング44先発36完投6完封、30勝16敗6セーブというすさまじい成績を残したのです。
三美スーパースターズの福士投手(1983年)
1982年の韓国プロ野球リーグは、チーム当り100試合をこなしていたので、福士はチームの全試合の60%に登板したことになります。今では想像もつかない酷使です。
彼は三美と契約金1,500万円、年俸2,500万円と日本円ベイスの契約を結んでおりました。税金を球団が負担する条件だったので、手取り4,000万円になり、寧ろ日本時代よりも良い待遇でした。
福士はこういった人間離れの実績を上げ、当然ながら1983年ペナントレースのMVPも獲得します。30勝で最多勝、220奪三振で奪三振も1位を取りましたが、防御率だけは2.34で2位に止まります。福士の投手三冠を阻止したのは、MBC青龍の河基龍投手でしたが、彼の防御率は2.3365です。福士の防御率も正確には2.3375だったので、当時KBOルールによれば、小数点以下3桁で四捨五入して、二人とも2.34の防御率になるはずでした。ところが、MBCは異議を唱えたのです。防御率タイトルの順位を争う場合は、四捨五入せず、小数点以下3桁までも比較するべきだと主張し、それが通ったのです。
そんなわけで、福士は僅差で三冠王を逃しましたが、河基龍が投げたイニング数は173.2に過ぎませんでした。427.1イニングを投げて防御率2.34を記録した福士とは中身の濃さでかなりの差があるものでした。
1983年、チーム当り100試合を行っていた韓国プロ野球リーグは、徐々に試合数も増え、今はチーム当り年間144試合を行うようになりました。然し、試合数が増えても、福士が成し遂げた年間30勝は、未だに破られる気配もありません。韓国では、今後二度と出てこない伝説の大記録と言われています。
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