2021年1月31日日曜日

箕子朝鮮 ②

 

箕子が赴いたという「朝鮮」の正確な位置については、諸説ある。後の高麗、李氏朝鮮では、平壌に箕子陵を造って祀っていたが、これは、楽浪郡の都が「朝鮮県」という名称だったことに起因する。楽浪郡朝鮮県は現在の平壌付近にあったのだ。一方で、中国の遼寧省の中にあったという説もあり、この二説がポピュラーであるが、他にもいろんな主張が存在しているのが実情だ。

 

箕子が紀元前12世紀頃、朝鮮の地に赴いて以来、彼の子孫たちは朝鮮候を世襲するようになったが、周王朝が衰退すると王を自称するようになる。

春秋戦国時代に入っては、隣国の燕が朝鮮としては脅威の存在となっていく。

秦が天下統一を成し遂げた後、朝鮮も秦に服従するようになり、その時が否王の時代である。

否王の息子である準が王位を引き継ぐことになるが、これが箕子朝鮮の最後となる。

 

準王(じゅんおう)または箕準(きじゅん、生没年不詳)は、箕子朝鮮の第41代の王(在位:紀元前220 - 紀元前195年)。

 

前漢時代、箕子朝鮮の準王は、燕から来た「衛満」という人物に朝鮮を奪われ、南へ奔った。

その後、準王は馬韓の地で韓王となったと「後漢書」に記されている。

韓国の名門氏族の一つである「淸州韓氏」は今も準王の末裔を名乗っており、昔馬韓の地だった淸州を本貫としている。

 

衛満が支配するようになった時から、漢武帝によって滅ぼされるまでの朝鮮を「衛氏朝鮮」と呼ぶ。

現在の韓国の歴史教科書には「箕子朝鮮」については記載がないが、「衛氏朝鮮」は言及している。なので、大半の韓国人の歴史認識では、「衛氏朝鮮」は「檀君朝鮮」を次いだものとなっている。

2021年1月30日土曜日

箕子朝鮮 ①

 

箕子と箕子朝鮮の概要については、前回の「檀君朝鮮は実在したのか②」にて説明してある。

紀元前12世紀、箕子が朝鮮平定してから、彼の子孫は朝鮮候を世襲したと伝わるが、中国の史料に箕子の子孫として始めて登場するのは40代目の「否王」である。そして、箕子朝鮮の最後の王となるのは41代目の「準王」である。

 

準王は燕人の「衛満」という人物に国を簒奪されるが、その話はまた次回に書くことにしよう。

 

箕子から否王の間は、中国の史料には記録が無いので、どんな人物が活躍し、どんな出来事があったのかは知る由が無い。然し、1879年に李氏朝鮮で編纂された「箕子志」という本には、箕子朝鮮の歴代王の廟号や名前までが詳細に書かれているから驚く。「箕子志」の他に、「淸州韓氏世譜」、「太原鮮于氏世譜」などにも似たような内容が記載されている。

韓氏・鮮于氏とは箕子の末裔を自称している氏族である。これらの記録は、箕子朝鮮が消えてから、遙か後に書かれたため、信憑性を疑わざるを得ない。そういう事情も含めて、下の年表はあくまでも興味本位で読んでほしい。



2021年1月15日金曜日

檀君朝鮮は実在したのか ③

 

李氏朝鮮の時代になり、檀君の祀堂が作られ、史書にも言及されるようになったが、箕子を始祖として尊び、祀ることには変わりがなかった。こういった朝鮮半島の人々の思想に大きな転機が訪れたのは、1930年代である。

1930年代の朝鮮半島というと、ご存じの通り、日本の支配下であった。

この時から、漢人である箕子を始祖とする思想を否定し、高麗から李氏朝鮮へと継がれてきた「小中華思想」も批判されるようになる。

 

この風潮には二つの大きな理由があった。

一つ目の理由は、民族意識が芽生えたためである。

二つ目は、一部の日本人学者が「箕子東来説」を否定したためである。

 

1865年にグレゴール・ヨハン・メンデルによるメンデルの法則が報告され、遺伝学は進歩が進み、以降、人種学に関する人類の関心も高まっていく。

西洋哲学のethnicityを日本語で「民族」と訳してからは、東アジアでも民族意識は芽生えるようになった。 そんな流れの中で、日本の支配下の朝鮮半島にも檀君朝鮮の存在を現実化し、民族意識を高めようとする運動が興った。反日独立活動家の申采浩も古代朝鮮半島での箕子の事績を縮小し、檀君を強調した人物の一人である。

日本人の学者の中でも、所謂「箕子東来説」に否定的な人がいたが、それは中国文化に対し、朝鮮半島の独立性を訴えるためでもあったと思われる。

 

勿論、「箕子東来説」を否定する当時の動きは、箕子の存在自体を否定したのではなく、彼の事績を縮小しようとするものであった。

戦後、朝鮮半島には北朝鮮と韓国の二つの政府が立つことになるが、北朝鮮の金日成は箕子を神聖視する伝統を民族の自尊心を害する行為と判断し、1959年に平壌にあった箕子陵の破壊を命じた。千年も続いてきた文化遺産を破壊したのである。

           破壊前の箕子陵の写真(ウィキペディアより)

これから、北朝鮮は箕子朝鮮の歴史を存在しなかったことに見做し、一然が創作した檀君朝鮮の物語を正規の歴史として位置づけるようになる。

 

北朝鮮に先導された民族主義による歴史捏造は、後に韓国にも影響を及ぼす事となる。

韓国の一部の在野学者は、「大学の史学教授の殆どが日韓併合時代に強いられていた『植民史観』に捉えられており、嘘の歴史を教えている」と主張し始めたのである。

戦後、樹立した李承晩政権は徹底的な反日政策を取っていたため、反日を掲げて主張してくると、その内容の信憑性がどうであろうが、とても反論できるような雰囲気ではなかった。箕子朝鮮の存在を否定し、檀君朝鮮を歴史上の事実として認めようとする学者たちは「民族史観」と自称し、既成の史料を「植民史観」とレッテルをつけて攻撃し続けたため、とうとう、1964年には韓国の歴史教科書から箕子朝鮮の内容が削除されるようになる。

 

60代以下の世代は箕子朝鮮の存在を教わっていないので、檀君朝鮮が実際の歴史の話だと認識しているのが今の韓国の実情である。

2021年1月10日日曜日

檀君朝鮮は実在したのか ②

 

一然が檀君朝鮮の存在を作り出したのは、民族意識を吹き込みたい意図があったと思われるが、高麗は「小中華」を標榜する国であったため、人々は箕子を始祖として崇拝し、彼の思想は広く受け入れられなかった。

高麗の王は、箕子の陵を作って、そこに祠堂を建て、代々、祀っていたのである。

 

それでは、高麗から李氏朝鮮に渡り、国の始祖として祀られてきた箕子とはどういう人物だったのか?

 

箕子は、名は胥余といい、殷の最後の王である紂王の叔父に当たる。

箕という地域を封地として与えられた為、箕子と呼ばれた。

 

箕の国は当時の殷の最北端にあたり、北方の異民族(土方、鬼方など)の力が強い地域であったが、箕子は良く治めてこれらを畏服させることに成功した。その功績が認められて中央に戻ると帝乙や帝辛(紂王)に仕えた。 箕子は農事・商業・礼法などに通じ、箕子が政治を執っている間、殷は大いに栄えた。

 

のちに紂王が暴君化すると、比干とともに帝辛を何度も諫めるが、聞き入れられないと分かると殷の行く末を憂えるあまり発狂したため、帝辛によって幽閉された。周武王が殷を倒すと箕子を朝鮮に封じた。朝鮮侯箕子は殷の遺民を率いて東方へ赴き、礼儀や農事・養蚕・機織の技術を広め、また犯禁八条を実施して民を教化し、箕子朝鮮を建国したという。

 

以上の箕子の話は、「尚書大伝」や「史記」宋微子世家に伝わる。

箕子が朝鮮に文明を教え、治めていた事を「箕子東来説」という。

 

高麗時代は、儒教の普及により、朝鮮半島において漢化が進んだ時期でもあった。

現代韓国の歴史教科書には、高麗は仏教の国、李氏朝鮮は儒教の国と二極分化しているが、実は、高麗時代に早くも儒教が浸透していたのである。

 

儒教の影響もあって、高麗人は中国を文化の優れた国として尊んでいた。

当時の東北アジアの他諸民族は中原とはかけ離れた独自の文化を維持していたが、高麗人たちは、そのような非中華的要素を蛮夷のものと蔑んでいた。そして、自分たちは周辺の諸民族とは違い、中原に近い文化圏だと自負していたのだが、その具体的な例となるのが、高麗人の「人名」と「文字」だと言えよう。

 

10世紀から12世紀の間、周辺の契丹、女真、モンゴル、日本は皆中国人とは変わった名前と独自の文字を持っていた。それに対し、高麗は自ら中国式の名前に改名し、漢字の専用を固守していたのである。

西洋では、ギリシャ・ローマ文字がそのまま他の諸民族にも普及していったが、東北アジアでは、中国の文化が周辺民族に多大な影響を与えたのにも拘わらず、文字だけはそのまま受け入れられることなく、諸民族は各自の文字を創製したのだ。それには、西洋とは違う理由がある。西洋の場合、ギリシャ人の言語とラテン・ケルト・ゲルマン族の言語体系には大きな違いはなかった。それが、東北アジアの場合は、文化の中心である漢族の言語と周辺民族の言語には構造的に大差があったため、漢字をそのまま、彼らの言語生活に取り入れるには難があった。不可避な必要性によって、皆独自の文字を作ったのである。

 

高麗の言語も女真と似たアルタイ語系なので、漢字をそのまま使うにはかなりの無理があったのだが、前述した通り、「小中華」を標榜していたため、自分たちの言語とはとてもフィットしない文字体系を強引に取り入れたのである。

 

高麗のこういった小中華の雰囲気の中で、一然が提唱した檀君朝鮮の概念が広まることはなかった。高麗を次いだ李氏朝鮮では尚、儒教の影響が多かったが、中期になって檀君の祀堂が作られるなど、檀君の存在感も徐々に増していった。前述した「東國通鑑」のように史書にも檀君を認めるケースが出はじめる。



2021年1月7日木曜日

檀君朝鮮は実在したのか ①

 


韓国の教科書及びマスコミでは「半万年の歴史」という表現を決まり文句のように使う。

韓国の歴史は半万年、すなわち5千年も続いているということだが、あの中国ですら、「4千年の歴史」と言っているのに、「5千年の歴史」とは、始めて耳にする人には「随分行きすぎているのではないか」との感想も多いだろう。

 

ここでは、多くの韓国人が「半万年の歴史」と主張している背景とその根拠について語りたいと思う。

 

まず、約5千年という計算は、どこからカウント開始しているのか?

古代国家の朝鮮(韓国の史学界では、李氏朝鮮と区別するため、古朝鮮という)は紀元前2333年に建国されたとの前提から「半万年の歴史」が成立している。

紀元前2333年に朝鮮が建国されたという話は、高麗時代の13世紀に僧侶の一然1206 - 1289年)が書いた「三国遺事」を根拠としている。

当書には、「檀君王倹は、唐高·唐堯(堯帝)が即位してから50年になる庚寅年に平壌城を都とし、国名を朝鮮と定めた」と書いてあり、ここでいう朝鮮を今は檀君朝鮮と呼んでいる。

 

そもそも、は歴史上の人物というより、神話の人物なので、その即位年度なんか判るわけがないが、中国北宋の儒学者邵雍は堯帝の存在を信じていて、即位年度を紀元前2357年と推定していた。そこから50年後に檀君朝鮮が建国したとの説である。

 

然し、紀元前2357年の50年後は紀元前2307年になるはずなのに、なんで、紀元前2333年になったのか?

高麗を継ぐ李氏朝鮮の中期になると、「三国遺事」を元ネタとし、檀君朝鮮の概念を含めた史書がいくつか書かれた。1484年に編纂された「東國通鑑」もそのひとつである。

紀元前2333年という話は、この「東國通鑑」が出典になる。「東國通鑑」には、なぜかぴったり50年ではなく、少し計算をずらしている。

 

「三国遺事」は当時、高麗に伝来していた民間説話を集めたのと中国の史書から引用したものをミックスした内容となっており、正確な歴史的記述ではない。

当書は、朝鮮半島のいろんな古書を引用したといっている。例えば、国史、古記、三国史などの古書が引用書として登場するが、これらの史書が当時、本当に存在していたのかも怪しい。よって、内容の一部は一然の創作ではなかったのではないかと思われている。

 

檀君朝鮮の存在も、民間伝承の檀君説話を一然が用いて創作した可能性が非常に高い。その理由としては、中国や日本の史料をクロスチェックしても檀君朝鮮の存在や関連引用書を裏付けるものが何も見つからないからである。