箕子が赴いたという「朝鮮」の正確な位置については、諸説ある。後の高麗、李氏朝鮮では、平壌に箕子陵を造って祀っていたが、これは、楽浪郡の都が「朝鮮県」という名称だったことに起因する。楽浪郡朝鮮県は現在の平壌付近にあったのだ。一方で、中国の遼寧省の中にあったという説もあり、この二説がポピュラーであるが、他にもいろんな主張が存在しているのが実情だ。
箕子が紀元前12世紀頃、朝鮮の地に赴いて以来、彼の子孫たちは朝鮮候を世襲するようになったが、周王朝が衰退すると王を自称するようになる。
春秋戦国時代に入っては、隣国の燕が朝鮮としては脅威の存在となっていく。
秦が天下統一を成し遂げた後、朝鮮も秦に服従するようになり、その時が否王の時代である。
否王の息子である準が王位を引き継ぐことになるが、これが箕子朝鮮の最後となる。
準王(じゅんおう)または箕準(きじゅん、生没年不詳)は、箕子朝鮮の第41代の王(在位:紀元前220年 - 紀元前195年)。
前漢時代、箕子朝鮮の準王は、燕から来た「衛満」という人物に朝鮮を奪われ、南へ奔った。
その後、準王は馬韓の地で韓王となったと「後漢書」に記されている。
韓国の名門氏族の一つである「淸州韓氏」は今も準王の末裔を名乗っており、昔馬韓の地だった淸州を本貫としている。
衛満が支配するようになった時から、漢武帝によって滅ぼされるまでの朝鮮を「衛氏朝鮮」と呼ぶ。
現在の韓国の歴史教科書には「箕子朝鮮」については記載がないが、「衛氏朝鮮」は言及している。なので、大半の韓国人の歴史認識では、「衛氏朝鮮」は「檀君朝鮮」を次いだものとなっている。
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