2021年1月15日金曜日

檀君朝鮮は実在したのか ③

 

李氏朝鮮の時代になり、檀君の祀堂が作られ、史書にも言及されるようになったが、箕子を始祖として尊び、祀ることには変わりがなかった。こういった朝鮮半島の人々の思想に大きな転機が訪れたのは、1930年代である。

1930年代の朝鮮半島というと、ご存じの通り、日本の支配下であった。

この時から、漢人である箕子を始祖とする思想を否定し、高麗から李氏朝鮮へと継がれてきた「小中華思想」も批判されるようになる。

 

この風潮には二つの大きな理由があった。

一つ目の理由は、民族意識が芽生えたためである。

二つ目は、一部の日本人学者が「箕子東来説」を否定したためである。

 

1865年にグレゴール・ヨハン・メンデルによるメンデルの法則が報告され、遺伝学は進歩が進み、以降、人種学に関する人類の関心も高まっていく。

西洋哲学のethnicityを日本語で「民族」と訳してからは、東アジアでも民族意識は芽生えるようになった。 そんな流れの中で、日本の支配下の朝鮮半島にも檀君朝鮮の存在を現実化し、民族意識を高めようとする運動が興った。反日独立活動家の申采浩も古代朝鮮半島での箕子の事績を縮小し、檀君を強調した人物の一人である。

日本人の学者の中でも、所謂「箕子東来説」に否定的な人がいたが、それは中国文化に対し、朝鮮半島の独立性を訴えるためでもあったと思われる。

 

勿論、「箕子東来説」を否定する当時の動きは、箕子の存在自体を否定したのではなく、彼の事績を縮小しようとするものであった。

戦後、朝鮮半島には北朝鮮と韓国の二つの政府が立つことになるが、北朝鮮の金日成は箕子を神聖視する伝統を民族の自尊心を害する行為と判断し、1959年に平壌にあった箕子陵の破壊を命じた。千年も続いてきた文化遺産を破壊したのである。

           破壊前の箕子陵の写真(ウィキペディアより)

これから、北朝鮮は箕子朝鮮の歴史を存在しなかったことに見做し、一然が創作した檀君朝鮮の物語を正規の歴史として位置づけるようになる。

 

北朝鮮に先導された民族主義による歴史捏造は、後に韓国にも影響を及ぼす事となる。

韓国の一部の在野学者は、「大学の史学教授の殆どが日韓併合時代に強いられていた『植民史観』に捉えられており、嘘の歴史を教えている」と主張し始めたのである。

戦後、樹立した李承晩政権は徹底的な反日政策を取っていたため、反日を掲げて主張してくると、その内容の信憑性がどうであろうが、とても反論できるような雰囲気ではなかった。箕子朝鮮の存在を否定し、檀君朝鮮を歴史上の事実として認めようとする学者たちは「民族史観」と自称し、既成の史料を「植民史観」とレッテルをつけて攻撃し続けたため、とうとう、1964年には韓国の歴史教科書から箕子朝鮮の内容が削除されるようになる。

 

60代以下の世代は箕子朝鮮の存在を教わっていないので、檀君朝鮮が実際の歴史の話だと認識しているのが今の韓国の実情である。

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