2021年1月10日日曜日

檀君朝鮮は実在したのか ②

 

一然が檀君朝鮮の存在を作り出したのは、民族意識を吹き込みたい意図があったと思われるが、高麗は「小中華」を標榜する国であったため、人々は箕子を始祖として崇拝し、彼の思想は広く受け入れられなかった。

高麗の王は、箕子の陵を作って、そこに祠堂を建て、代々、祀っていたのである。

 

それでは、高麗から李氏朝鮮に渡り、国の始祖として祀られてきた箕子とはどういう人物だったのか?

 

箕子は、名は胥余といい、殷の最後の王である紂王の叔父に当たる。

箕という地域を封地として与えられた為、箕子と呼ばれた。

 

箕の国は当時の殷の最北端にあたり、北方の異民族(土方、鬼方など)の力が強い地域であったが、箕子は良く治めてこれらを畏服させることに成功した。その功績が認められて中央に戻ると帝乙や帝辛(紂王)に仕えた。 箕子は農事・商業・礼法などに通じ、箕子が政治を執っている間、殷は大いに栄えた。

 

のちに紂王が暴君化すると、比干とともに帝辛を何度も諫めるが、聞き入れられないと分かると殷の行く末を憂えるあまり発狂したため、帝辛によって幽閉された。周武王が殷を倒すと箕子を朝鮮に封じた。朝鮮侯箕子は殷の遺民を率いて東方へ赴き、礼儀や農事・養蚕・機織の技術を広め、また犯禁八条を実施して民を教化し、箕子朝鮮を建国したという。

 

以上の箕子の話は、「尚書大伝」や「史記」宋微子世家に伝わる。

箕子が朝鮮に文明を教え、治めていた事を「箕子東来説」という。

 

高麗時代は、儒教の普及により、朝鮮半島において漢化が進んだ時期でもあった。

現代韓国の歴史教科書には、高麗は仏教の国、李氏朝鮮は儒教の国と二極分化しているが、実は、高麗時代に早くも儒教が浸透していたのである。

 

儒教の影響もあって、高麗人は中国を文化の優れた国として尊んでいた。

当時の東北アジアの他諸民族は中原とはかけ離れた独自の文化を維持していたが、高麗人たちは、そのような非中華的要素を蛮夷のものと蔑んでいた。そして、自分たちは周辺の諸民族とは違い、中原に近い文化圏だと自負していたのだが、その具体的な例となるのが、高麗人の「人名」と「文字」だと言えよう。

 

10世紀から12世紀の間、周辺の契丹、女真、モンゴル、日本は皆中国人とは変わった名前と独自の文字を持っていた。それに対し、高麗は自ら中国式の名前に改名し、漢字の専用を固守していたのである。

西洋では、ギリシャ・ローマ文字がそのまま他の諸民族にも普及していったが、東北アジアでは、中国の文化が周辺民族に多大な影響を与えたのにも拘わらず、文字だけはそのまま受け入れられることなく、諸民族は各自の文字を創製したのだ。それには、西洋とは違う理由がある。西洋の場合、ギリシャ人の言語とラテン・ケルト・ゲルマン族の言語体系には大きな違いはなかった。それが、東北アジアの場合は、文化の中心である漢族の言語と周辺民族の言語には構造的に大差があったため、漢字をそのまま、彼らの言語生活に取り入れるには難があった。不可避な必要性によって、皆独自の文字を作ったのである。

 

高麗の言語も女真と似たアルタイ語系なので、漢字をそのまま使うにはかなりの無理があったのだが、前述した通り、「小中華」を標榜していたため、自分たちの言語とはとてもフィットしない文字体系を強引に取り入れたのである。

 

高麗のこういった小中華の雰囲気の中で、一然が提唱した檀君朝鮮の概念が広まることはなかった。高麗を次いだ李氏朝鮮では尚、儒教の影響が多かったが、中期になって檀君の祀堂が作られるなど、檀君の存在感も徐々に増していった。前述した「東國通鑑」のように史書にも檀君を認めるケースが出はじめる。



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