箕子と箕子朝鮮の概要については、前回の「檀君朝鮮は実在したのか②」にて説明してある。
紀元前12世紀、箕子が朝鮮平定してから、彼の子孫は朝鮮候を世襲したと伝わるが、中国の史料に箕子の子孫として始めて登場するのは40代目の「否王」である。そして、箕子朝鮮の最後の王となるのは41代目の「準王」である。
準王は燕人の「衛満」という人物に国を簒奪されるが、その話はまた次回に書くことにしよう。
箕子から否王の間は、中国の史料には記録が無いので、どんな人物が活躍し、どんな出来事があったのかは知る由が無い。然し、1879年に李氏朝鮮で編纂された「箕子志」という本には、箕子朝鮮の歴代王の廟号や名前までが詳細に書かれているから驚く。「箕子志」の他に、「淸州韓氏世譜」、「太原鮮于氏世譜」などにも似たような内容が記載されている。
韓氏・鮮于氏とは箕子の末裔を自称している氏族である。これらの記録は、箕子朝鮮が消えてから、遙か後に書かれたため、信憑性を疑わざるを得ない。そういう事情も含めて、下の年表はあくまでも興味本位で読んでほしい。
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