2021年2月20日土曜日

韓国語講座

韓国語講座

韓国語を学習したい方々のために、これから韓国語講座を連載したいと思います。



 

韓国語とは 

韓国語は、韓国(南朝鮮)と北朝鮮で使われている言語です。

韓国語=朝鮮語です。

日本では、この同じ言語を二つの名称で呼んでいますが、正直、違和感を覚えます。イランの国語は、イラン語でなく、ペルシャ語。米国の国語は、米語でなく、英語なのに、なんで韓国語だけ、二通りの呼称が存在するのでしょうか?

合理性がないですね。

昔からの呼び方を尊重するのであれば、「朝鮮語」でもいいし、北朝鮮とは国交がなく、韓国とのみ国交を結んでいることを鑑みると、「韓国語」でもいいと個人的に思います。

このブログでは、便宜的に「韓国語」と呼称を統一しましょう。

 

韓国語は、日本語と同じく、アルタイ語族に属すると言われましたが、最近は違う意見が学界から出ているため、語族の分類が曖昧になっています。

然し、日本語と文法上の類似性は多々あるため、外国語として韓国語を習うなら、他の外国人より日本人の方がかなり有利です。

 

韓国語の使用人口は約7500万人と推定されます。

内訳は以下の通り。

韓国+北朝鮮の人口:約6,700万人

海外居住の韓国系:約800万人(在中韓国人が一番多い)

 

 

 

韓国語の特徴

①文の構成は、主語-目的語-述語の順になっている。

②すべての文法的要素は必ず語幹の後ろにつく。(語尾)

③修飾語は必ず被修飾語の前に位置する。

④語彙の約80%を漢語が占めている。

⑤文の中で、主語と目的語の省略が頻繁に行われる。

⑥代名詞の使用頻度が少ない。

 




④について、少し詳しく説明しましょう。


韓国語彙の80%が漢語

 韓国語においての「漢語」の概念は日本語のそれと同様で、漢字を音読みした単語を指します。韓国は1990年代の半ばに、「国漢文混用」を廃止したので、新聞や雑誌などはハングルのみで書いてあります。未だに、ハングルと漢字が混ざっている書物は専門的な書籍に限ります。というわけで、漢語といっても、表記は漢字でなく、ハングルで書かれるのが一般的です。

 

韓国語の語彙に漢語が急激に増えたのは、近代に入っての日本語の影響が大きいです。

明治維新以降の日本は、西洋の技術・制度・哲学などを貪欲に吸収している時期で、西洋文物の用語を漢語に訳する作業に励んでいましたが、それらの語彙が韓国語に溶け込んできたわけです。

例えば、次のような単語がその例です。

科学

과학

ゴァハク

化学

화학

ホァハク

物理

물리

ムルリ

社会

사회

サホィ

政治

정치

ジョンチ

国家

국가

グッカ

国民

국민

グンミン

郵便

우편

ウピェオン

学校

학교

ハッキョ

韓国語において漢字の読み方には日本語の訓読みのようなものはないため、全てが音読みとなっています。しかも、ごく一部のケースを除いては、各漢字の詠み方が一つに統一されているので、非常に覚えやすいのが特徴です。なので、各漢字の韓国語での読み方を覚えておくと、漢語の場合において日本語の単語から韓国語の発音を類推することも可能です。

例えば、学という字は、韓国語では「(ハク)」と発音するので、これを覚えておくと、学が入っている色んな単語の読み方が全部判れます。

大学:대학(デハク)

進学:진학(ジンハク)

退学:퇴학(テハク)

学長:학장(ハクジャン)

学費:학비(ハクビ)

 

こうやって、日本語の単語から該当する韓国語の単語を類推できることは、日本人にとって韓国語がもっとも習得しやすい言語になる理由の一つです。もう一つの理由は、語順が同じで、文法もほぼ一緒であることです。

 

それでは、私と一緒に韓国語を楽しく勉強してみましょう。

 

崔毖

 

311年、幽州の支配者だった王浚は、姻戚である崔毖を東夷校尉に任命し、遼東を任せた。

崔毖は、「三国志」で有名な崔琰の末裔だと云う。

314年、王浚が石勒に殺害されると、頼るところが無くなった崔毖は遼東で自立を目論む。317年には、司馬睿を帝位に推戴する参画にも加わった。

 

一方、遼西を本拠地としていた鮮卑・慕容部が大人慕容渉帰の下で270年頃から、遼東に進出した。西晋に服従していたが、281年から従属を拒んで昌黎郡を侵攻するなど、独立の色を強めていった。

慕容渉帰の子、慕容廆が大人になってから、慕容部は更に強大になる。

 

毖は、高句麗と鮮卑族の段部・宇文部を誘い、慕容部を伐とうとしたが、慕容廆はこれを撃退した。身の危険を感じた崔毖は、319年に高句麗に奔った。

高句麗に亡命した後の崔毖の活躍については、「三国史記」・「三国遺事」などには記されていないが、中国の律令を高句麗に伝え、国家体制を築くのに貢献したと推測される。

 

現代の韓国では、崔姓は4番目に人口の多い名字である。(約240万人)

40余りの本貫が存在しているが、その殆どは、王氏高麗の人物を始祖としているので、崔毖とは関係ない。

 

昌黎・遼東の二郡を平定した慕容廆は、現地で確固たる地盤を築いたので、その実力を認めた西晋の愍帝(司馬鄴)は昌黎・遼東の国公に任じて懐柔した。

劉聡によって西晋が滅ぶと、琅邪王司馬睿は318年、帝位について東晋を建国した。

慕容廆は東晋の朝廷に恭順の意を示し、官爵を受けた。

 

遼東を占めた慕容部は、高句麗と対立するようになり、数回戦闘を交えた後、美川王は和睦を乞い、慕容廆はこれを受けた。

2021年2月16日火曜日

高句麗の隆盛

 

313年に楽浪郡が廃止されると、高句麗は中国の隷属から完全に解放される。

当時の中国は、西晋の3代皇帝、懐帝が異民族の劉聡によって殺され、事実上西晋が滅んだ年である。中原は漢民族の皇帝が治める東晋と匈奴・鮮卑の異民族の王国が並び立つ大混乱期と言われる「五胡十六国時代」の幕が上がる時であった。それ故に朝鮮半島にまで統制力が及ぶような状態ではなかった。

 

「三国史記」には、この時期を「美川王」の治下と記されてある。

三国史記の高句麗王年表

 


美川王の名は乙弗という。王位に就くまでの彼の人生はドラマチックなものだった。

父は、第13代王の西川王の子の咄固である。伯父が、西川王を次いだ烽上王だが、烽上王は咄固に叛意ありとして彼を死に追いやる。乙弗は、自分も伯父に殺害されることを恐れて、都を逃れる。塩売りをしながら、身を隠していたが、倉助利という大臣が乙弗を探しだし、烽上王を廃位して彼を王位につけた。

 

美川王は即位して僅か2年後である302年に玄菟郡を攻撃し、8千人の捕虜を得た。

311年には、遼東郡の西安平を占領。313年に楽浪郡、314年には帯方郡を滅ぼした。

 

一方、中原では291年に起こった楊駿誅殺を皮切りに、八王の乱と呼ばれる皇族同士の大規模な内乱が勃発した。この大混乱に乗じて浮上した英雄が劉淵である。

彼は、南匈奴の単于於夫羅の孫であるが、父の代から漢人の姓である劉姓を名乗るようになった。これは先祖である冒頓単于が前漢代の漢王朝と兄弟の契りを結んで漢の皇族を妻に娶っていたことから由来する。

劉淵は、鄴の成都王司馬穎の下で官職に就いていたが、親族の劉宣らが自分を匈奴の大単于に推戴するという誘いを受け、3048月、匈奴の根拠地である左国城に移った。

同年10月、漢王朝の復興を大義名分として自ら漢王に即位する。そして、30810月には、皇帝に即位する。

3098月から、晋の都である落陽を落とすべく侵攻するが、生前に偉業は達成できず、病に見舞われて3106月にこの世を去った。

 

劉淵の死後、子の劉聡が落陽を陥落し、司馬鄴が長安で起こした亡命政権をも316年に鎮圧して西晋は完全に滅んだ。劉淵が漢を建国した30410月から西晋の朝廷と抗争した一連の事件を「永嘉の乱」と呼ぶ。

 

高句麗の美川王が遼東郡・楽浪郡・帯方郡を攻撃していた時期の幽州刺史は王浚だった。

王浚は当時、劉淵配下の石勒と激戦を繰り広げていたため、東方辺境の三郡を援助することはできなかったであろう。

2021年2月13日土曜日

南の辰国

 

「三国史記」に、好童に関わる説話はもう一つある。

楽浪国を征服するなど、好童の名声が上がると、彼が太子となることを恐れた大武神王の元妃が王に讒言した。好童は、元妃の悪行がさらされると父である大武神王に心配をかけるようになり、不孝に当たると思い、自殺した。

 

ここでの元妃は好童の実母ではない。好童の実母は葛思国王の孫娘で、大武神王の二番目の妃だという。

 

好童のストーリーに登場する楽浪国とは、楽浪郡であると推測するのが自然だろう。なのに、韓国の所謂「民族史観」の学者の中には、楽浪国は楽浪郡とは別に存在した古代国家だと、根拠もない主張をする、とても想像力の豊かな方々もいる。

そもそも、「王子好童」の説話自体が実際起きた史実でない可能性が高いし、「楽浪王の崔理」という人物も中国の史料にはその名前が見当たらない。

金富軾は、おそらく楽浪郡を「楽浪国」、楽浪太守を「楽浪王」と表現したと思われる。というのも、当時(12世紀)の高麗では、中国の「郡」と「国」を混同することは十分あり得るためだ。「三国史記」だけでなく、一然の「三国遺事」にも「楽浪国」という表現は出る。

 

「崔理」が実在人物であり、又、楽浪郡の太守だったとしたら、当時の高句麗軍は役所を攻撃し、その太守を殺害したことになる。「王子好童」の民話がどれほど史実を反映しているかとは別に、当時の楽浪郡の管轄下で中国の役人たちと原住民の間で争いあり、恋物語ありの、様々なドラマが繰り広げられたのではないかと想像するのは面白い。

 

この説話の舞台となるのは、漢の光武帝の時代辺りと推測される。

この時代はまだ、漢の行政が朝鮮半島の北部に行き届いていたのだが、高句麗の反骨精神はしぶとく続く。後漢が滅び、三国時代の混乱を経て司馬氏の晋が建国された頃は、独立国家として存在感を放つようになる。

 

一方で、漢の行政が届いてなかった朝鮮半島の南部はどうだったのか。



衛氏朝鮮が起こる頃、「辰国」というのが南に隣接していたとの記録が「三国志」魏志東夷列伝にある。この辰国が後の三韓のうち、辰韓に当たるという見解と三韓全体の前身と見る見解に分かれている。いずれにせよ、辰国の詳細については、史料に乏しいので、一つの国家として機能していたのか、ただの部族連合体だったのかははっきりしていない。

 

辰国は後に馬韓、弁韓、辰韓と分かれて歴史に登場するが、馬韓の地には百済、弁韓には加羅、辰韓には新羅が起こり、朝鮮半島においての「元三国時代」を迎えることになる。

三韓と百済・加羅・新羅の三国との関係も未だはっきりしたことは判らない。

朝鮮半島の北部にあった「古朝鮮」(箕子朝鮮と衛氏朝鮮)については、中国と関わりがあったため、史料がある程度、残っているが、南部にあった辰国や三韓については記録が殆ど残っていない。

 

推測するに、北の「朝鮮」と南の「辰」は民族構成が異なったと思われる。

朝鮮の民族構成は、燕などの中国からの到来人+濊貊人だったのに対し、辰は他族の領域だった可能性が高い。というのは、「三国史記」などによると、高句麗から分岐した一派が馬韓の地に定着し、支配層を形成することになるが、彼らの言語と被支配層の言語は異なったそうだ。

「辰」若しくは「三韓」の原住民を「韓族」と呼ぶ。

2021年2月6日土曜日

王子好童と楽浪公主

 

王莽が建てた新王朝は僅か15年で滅び、劉秀(光武帝)によって漢王朝が復活する。ここからが後漢時代である。

光武帝は、高句麗の首長を候から王へと昇格させた。つまり、高句麗の首長は「王」と称するようになったのが、この時期からである。然し、「三国史記」の年代表には、この時期を三代目の大武神王の時代と記しており、始祖の朱蒙から既に王の称号(東明聖王)を与えている。これは、著者の金富軾が高麗時代の感覚で脚色したものと思われる。

 

高句麗は、後漢の時代に入り、更に勢力を拡大していく。

高句麗の圧力で、漢は313年に楽浪郡を廃止するので、この時期に至っては中国から完全に独立したとみていいだろう。又、「三国史記」では、494年文咨明王の代に夫余を併合したと記している。濊貊の諸国も5世紀頃には高句麗に平定されたと思われる。

朝鮮半島が中華圏文化に含まれるようになったのは、楽浪郡の存在が大きかったのは否めない。楽浪郡の歴代太守は、周辺の濊貊人たちを懐柔したり、制圧したりの勤めだったろうが、中には原住民の攻撃を受け、殺されたりのこともあったのではと想像する。

「三国史記」に「王子好童」という高句麗の王子に関する逸話が載っているが、ここには「楽浪国」という国と「楽浪王の崔理」という人物が登場する。

 

夏の4月、王子好童が沃沮を遊覧していた。その時、楽浪王の崔理がそこで好童と出会い、こう尋ねた「御主の顔を見ると常人でないことがわかる。其方がどうして北国神王の息子でないだろう?」楽浪王崔理は、好童に自分の娘を娶らせる。

その後、好童が帰国してから密かに妻に人を遣ってこう伝えた。「君が自国の武器庫に入り、太鼓を裂き、角笛を破れば、僕は礼を持って君を迎えるだろう。でなければ、君を迎えない」

昔から楽浪国には太鼓と角笛があって、敵兵が襲ってくると自ら鳴り出して危機を知らせてくれるので、好童は彼女にそれを破壊させたのだ。

崔理の娘は密かに武器庫に入り、鋭い刀で太鼓を裂き、角笛の口を切ってから、好童にそのことを伝えた。好童が大武神王に楽浪国を攻撃することを勧めた。崔理は太鼓と角笛が鳴らなかったため、敵の攻撃に防備ができず、敵兵が城下に至った後に太鼓と角笛が破壊されたことを知った。彼は自分の娘を殺してから高句麗へ降伏した。

 

上記の物語は、高句麗に関する説話の中で、現代の韓国人の間に特に有名なものである。

「三国史記」のオリジナル・ストーリーに肉付けをした小説がいくつか後代に作られており、小説の内容がそのまま史実だと勘違いしている韓国人も多い。

小説の中だと、崔理の娘は「楽浪公主」と、あの太鼓は「自鳴鐘」と名付けられ、今の韓国ではかなり有名なワードとなっている。

2021年2月5日金曜日

高句麗

 の隆盛に伴い、玄菟郡は西へ向かって二回の遷都の末、107年に廃止したことは前述した。

 

漢は、玄菟郡を遷都し、真蕃郡と臨屯郡を廃止の上、楽浪郡に統合する。尚、濊族の首長らに自治を認めて楽浪郡に納税させた。

高句麗・沃沮・東濊が楽浪郡に服従していた濊族の勢力である。彼らの言語は大同小異で夫余系の言語だったと思われる。

 

濊の諸国の中で一番強大だったのは高句麗である。

高句麗は、漢の朝廷から自治を認められ、その首長は高句麗候として冊封を受けていたが、時々、自分たちの力が強くなると、入朝を怠り、朝貢をも拒否したりし、独立の色を強めることがあった。

高句麗という名称は、玄菟郡の高句麗県から由来したと見られる。高句麗の他、句麗、高麗とも呼ばれており、後期には高麗の名称が定着した。しかし、現代の韓国の教科書などでは敢えて「高句麗」の名称に統一している。その理由は、10世紀に王権が朝鮮半島で建国した高麗と区別するためである。

 

王莽が新王朝を立てた後、新と高句麗の間に摩擦が生じる。12年に匈奴出兵のために高句麗に出兵を命じたが、高句麗候騶がこれに応じなかったため、彼を長安へ連行して処刑したことがある。王莽は高句麗を「下句麗」と改名し、卑しめるなど、高句麗に対し、強硬的な姿勢を示し、服従させた。

この件は、「漢書」に記載されている内容だが、処刑されたという高句麗候騶は「三国遺事」に登場する朱蒙(チュモン)のことではなかろうとの説もある。「三国遺事」がどういう本なのかは初回に紹介してあるが、ここで少し、「三国遺事」の中の朱蒙に関する説話を紹介しよう。

 

「三国遺事」での記述

国史高麗本紀に、始祖東明聖帝の姓は高氏で、諱は朱蒙と云う。

夫余の解夫婁が東夫余へ逃げ、夫婁が去った後、金蛙が位を継いだ。

この時、太伯山の南方にある優渤山である女と出会って、尋ねると、「私は、河伯の娘で柳花と申します。名を解慕漱といい、自分が天帝の子だという男に誘われ、鴨綠江の家で私通してから戻ってこないため、父母が許諾無しに婚姻したことを咎めて私をここへ追い払いました」といった。

金蛙がその話を不思議だと思い、彼女を部屋に閉じ込めたら、日光が彼女のお腹を当てて懐妊し、一つの卵を産んだ。金蛙はその卵を豚や犬に遣ったが、食べようとしない。次は路に捨てたら、牛馬はそれを避けて通った。今度は野原に捨てると、鳥や獣が覆ってくれた。

金蛙は卵を柳花に返して、そこから朱蒙が生まれる。

朱蒙という名は弓矢の腕が優れるとの意味で、7歳になって既に矢を射れば百発百中だったという。金蛙は七人の息子がいたが、誰一人、朱蒙の器量には及ばなかった。長子の帯素が「朱蒙は人間の所生ではなく、既に始末しないと後患になる」と金蛙に進言したため、殺されるのを恐れ、朱蒙は夫余を脱出し、南下して卒本州に至った。そこで、高句麗を建国した。

 

「三国遺事」で引用元として登場する「国史」とか「檀君記」などはその出所が怪しい史書であり、中国と日本の史料とクロスチェックしてみても、「三国遺事」の内容を裏付けるようなものは存在しない。なので、載っているストーリーは民話の類いだと受け止めればいいと思う。

 

「三国遺事」13世紀末に高麗の高僧一然によって書かれた史書で、韓国の「三国時代」の故事・説話を含んでいる。その構成は次の通りである。

巻一:王暦・紀異

巻二:紀異

巻三:法興・塔像

巻四:義解

巻五:神呪・感通・避隠・孝善“

引用元:Wikipedia「三国遺事」

 

「三国遺事」よりも少し先に書かれた史書で「三国史記」というものがある。

この史書は、1143年から1145年の間で執筆されたと云うので、朝鮮半島に伝わる最古の史料になる。韓国の古代史、即ち、三国時代に関する韓国側の史料として現存するはこの二書しかなく、韓国の古文献の中ではもっとも重要なものである。

「三国遺事」が、説話中心で書かれているのに対して、『三国史記』は紀伝体に従い書かれており、もっと歴史書らしさがある。「三国史記」は「後漢書」、「三国志魏書」東夷伝などの中国史料と「日本書紀」を参考にして書かれたと思われる。然し、両書とも史料としての正確さは欠如しているし、創作と思われる部分が多く含まれている。結果的に、両書は中国の史料と照らし合わせると相違点が多々発見される。

「三国史記」を執筆したのは金富軾という人物で、彼は当代の儒学者でありながら、権力者でもあった。既に高麗が建国し、200年ほどが過ぎた時代であったが、彼は新羅系の末裔だったため、史書の執筆において新羅中心に偏ったとも後代には指摘されている。

2021年2月4日木曜日

漢四郡

 漢四郡の地図

紀元前108年に衛氏朝鮮を滅ぼした後、漢は朝鮮半島の中部・北部に漢四郡を設置し、直接支配を始めた。

上記地図にご覧のように漢四郡の領域は現在の北朝鮮と大部分が重なる。韓国の所謂民族史学界では、漢四郡が現在の中国領土の中に位置していたと主張するが、裏付ける史料は乏しく、最近では韓国内でも「歪んだナショナリズム」として避難を受けることが多い。

 

楽浪郡・真蕃郡・臨屯郡・玄菟郡の四郡は後に原住民勢力の抵抗に遭い、真番郡・臨屯郡が紀元前82年に廃止され、玄菟郡107年に廃止される。楽浪郡だけは、313年まで続き、420年も存続する。又、玄菟郡が廃止になった後、204年には帯方郡があらたに設置され、楽浪郡と同じく、313年まで続いた。

 

楽浪郡により、朝鮮半島に中国の文明・礼節が根を下したといえるし、楽浪郡直轄の人民たちの思想や精神は、後の朝鮮半島に存在した国々の人たちへも継承されていったと思われる。韓国の歴史において源流と称しても過言ではないだろう。

 

衛氏朝鮮が滅びた後、歴史上に登場するのが濊である。

「史記」朝鮮列伝には、「衛氏朝鮮の右渠が真番や芳衆国が天子に謁見 したいと欲して上書 してもこれを抑えて取り次がないという」と書いてあるので、濊は当時、真番・臨屯の地に居住しており、衛氏朝鮮に服属していたと思われる。漢が衛氏朝鮮を滅ぼしてからは、漢四郡の下で納税を担いながら服していたが、徐々に勢力を拡大し、独立の色を帯びるようになる。

 

濊の他に、貊と称されることもあるが、特に高句麗は貊と呼ばれた。

濊と貊が別々の種族だったのか、同類だったのかについては、学界での意見が分かれており、定かではない。とにかく、これらを総称して、濊貊族とも呼ぶ。

 

夫余・高句麗・沃沮・東濊は濊貊の国々だと思われる。