「三国史記」に、好童に関わる説話はもう一つある。
楽浪国を征服するなど、好童の名声が上がると、彼が太子となることを恐れた大武神王の元妃が王に讒言した。好童は、元妃の悪行がさらされると父である大武神王に心配をかけるようになり、不孝に当たると思い、自殺した。
ここでの元妃は好童の実母ではない。好童の実母は葛思国王の孫娘で、大武神王の二番目の妃だという。
好童のストーリーに登場する楽浪国とは、楽浪郡であると推測するのが自然だろう。なのに、韓国の所謂「民族史観」の学者の中には、楽浪国は楽浪郡とは別に存在した古代国家だと、根拠もない主張をする、とても想像力の豊かな方々もいる。
そもそも、「王子好童」の説話自体が実際起きた史実でない可能性が高いし、「楽浪王の崔理」という人物も中国の史料にはその名前が見当たらない。
金富軾は、おそらく楽浪郡を「楽浪国」、楽浪太守を「楽浪王」と表現したと思われる。というのも、当時(12世紀)の高麗では、中国の「郡」と「国」を混同することは十分あり得るためだ。「三国史記」だけでなく、一然の「三国遺事」にも「楽浪国」という表現は出る。
「崔理」が実在人物であり、又、楽浪郡の太守だったとしたら、当時の高句麗軍は役所を攻撃し、その太守を殺害したことになる。「王子好童」の民話がどれほど史実を反映しているかとは別に、当時の楽浪郡の管轄下で中国の役人たちと原住民の間で争いあり、恋物語ありの、様々なドラマが繰り広げられたのではないかと想像するのは面白い。
この説話の舞台となるのは、漢の光武帝の時代辺りと推測される。
この時代はまだ、漢の行政が朝鮮半島の北部に行き届いていたのだが、高句麗の反骨精神はしぶとく続く。後漢が滅び、三国時代の混乱を経て司馬氏の晋が建国された頃は、独立国家として存在感を放つようになる。
一方で、漢の行政が届いてなかった朝鮮半島の南部はどうだったのか。
衛氏朝鮮が起こる頃、「辰国」というのが南に隣接していたとの記録が「三国志」魏志東夷列伝にある。この辰国が後の三韓のうち、辰韓に当たるという見解と三韓全体の前身と見る見解に分かれている。いずれにせよ、辰国の詳細については、史料に乏しいので、一つの国家として機能していたのか、ただの部族連合体だったのかははっきりしていない。
辰国は後に馬韓、弁韓、辰韓と分かれて歴史に登場するが、馬韓の地には百済、弁韓には加羅、辰韓には新羅が起こり、朝鮮半島においての「元三国時代」を迎えることになる。
三韓と百済・加羅・新羅の三国との関係も未だはっきりしたことは判らない。
朝鮮半島の北部にあった「古朝鮮」(箕子朝鮮と衛氏朝鮮)については、中国と関わりがあったため、史料がある程度、残っているが、南部にあった辰国や三韓については記録が殆ど残っていない。
推測するに、北の「朝鮮」と南の「辰」は民族構成が異なったと思われる。
朝鮮の民族構成は、燕などの中国からの到来人+濊貊人だったのに対し、辰は他族の領域だった可能性が高い。というのは、「三国史記」などによると、高句麗から分岐した一派が馬韓の地に定着し、支配層を形成することになるが、彼らの言語と被支配層の言語は異なったそうだ。
「辰」若しくは「三韓」の原住民を「韓族」と呼ぶ。
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