衛氏朝鮮は、衛満の孫である右渠まで続いたのだが、漢武帝の時代になり、危機が到来する。
真番や芳衆国が天子に謁見しようとしたが、通り道を占有している右渠がそれを阻んだのが原因だった。
「史記」朝鮮列伝に次のように伝わる。
紀元前109年、武帝は渉何を右渠のところに使わし、服属することを論じたが、右渠は応じなかった。渉何は漢に帰るため、国境まで来て浿水に臨んだ。自分たちを送る朝鮮の裨王長を部下に命じて殺してから、浿水を渡り、塞に駆け込んだ。
武帝には、「朝鮮の将を殺した」と報告すると、その聞こえがよかったものだから、武帝は渉何を遼束の東尉都督に任じた。
朝鮮は渉何を恨み、兵を発して渉何を攻め殺した。
ここで漢は、ついに朝鮮征伐に出る。
紀元前109年に武帝は、楼船将軍楊僕に命じて罪人で構成された五万の軍勢で朝鮮を攻めさせた。斉より渤海を渡って進み、左将軍荀彘も遼東から出て加わった。朝鮮の抗戦に攻めあぐねながらも、楊僕は斉の兵七千人を率いて王険城まで迫ったが、右渠はこれを守り抜く。戦争は膠着状態にあるのをみて、武帝は衛山を勅使として使わし、右渠に諭した。それに、右渠は降伏を約束した。
右渠は太子を遣わし謝すことにして、馬五千匹を献じ、および軍糧を送ることにした。
一万の人衆で浿水まで至り、兵器を持って河を渡ろうとした。
勅使と左将軍は彼らが急変 して背くのではないかと疑い、太子に、「すでに降服 したのであるから人々に兵器を持たぬように命じてほしい」と要求する。太子は亦使者と左将軍が自分を殺すのではないかと疑って、そこで浿水を渡らずに引き返 した。衛山は天子に報告すると、天子は衛山を誅した。
左将軍は浿水上の軍を破 り、前進 して王険城の下まで行き、その西北を囲んだ。楼船は亦城の南に居した。右渠は城を堅守した。数月しても未だ降りなかった。
衛氏朝鮮は漢の攻撃に約1年間も粘り強く抗戦してきたが、とうとう耐えきれず、内紛がおこる。尼谿相の参が人を使わし右渠を殺したのである。紀元前108年、参をはじめとする朝鮮の官吏たちは、漢軍に降伏した。
漢武帝は、朝鮮の地に楽浪郡・真蕃郡・臨屯郡・玄菟郡の四郡を設置し、直轄統治をはじめるが、史書などではこれを「漢四郡」と呼ぶ。
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