2021年2月6日土曜日

王子好童と楽浪公主

 

王莽が建てた新王朝は僅か15年で滅び、劉秀(光武帝)によって漢王朝が復活する。ここからが後漢時代である。

光武帝は、高句麗の首長を候から王へと昇格させた。つまり、高句麗の首長は「王」と称するようになったのが、この時期からである。然し、「三国史記」の年代表には、この時期を三代目の大武神王の時代と記しており、始祖の朱蒙から既に王の称号(東明聖王)を与えている。これは、著者の金富軾が高麗時代の感覚で脚色したものと思われる。

 

高句麗は、後漢の時代に入り、更に勢力を拡大していく。

高句麗の圧力で、漢は313年に楽浪郡を廃止するので、この時期に至っては中国から完全に独立したとみていいだろう。又、「三国史記」では、494年文咨明王の代に夫余を併合したと記している。濊貊の諸国も5世紀頃には高句麗に平定されたと思われる。

朝鮮半島が中華圏文化に含まれるようになったのは、楽浪郡の存在が大きかったのは否めない。楽浪郡の歴代太守は、周辺の濊貊人たちを懐柔したり、制圧したりの勤めだったろうが、中には原住民の攻撃を受け、殺されたりのこともあったのではと想像する。

「三国史記」に「王子好童」という高句麗の王子に関する逸話が載っているが、ここには「楽浪国」という国と「楽浪王の崔理」という人物が登場する。

 

夏の4月、王子好童が沃沮を遊覧していた。その時、楽浪王の崔理がそこで好童と出会い、こう尋ねた「御主の顔を見ると常人でないことがわかる。其方がどうして北国神王の息子でないだろう?」楽浪王崔理は、好童に自分の娘を娶らせる。

その後、好童が帰国してから密かに妻に人を遣ってこう伝えた。「君が自国の武器庫に入り、太鼓を裂き、角笛を破れば、僕は礼を持って君を迎えるだろう。でなければ、君を迎えない」

昔から楽浪国には太鼓と角笛があって、敵兵が襲ってくると自ら鳴り出して危機を知らせてくれるので、好童は彼女にそれを破壊させたのだ。

崔理の娘は密かに武器庫に入り、鋭い刀で太鼓を裂き、角笛の口を切ってから、好童にそのことを伝えた。好童が大武神王に楽浪国を攻撃することを勧めた。崔理は太鼓と角笛が鳴らなかったため、敵の攻撃に防備ができず、敵兵が城下に至った後に太鼓と角笛が破壊されたことを知った。彼は自分の娘を殺してから高句麗へ降伏した。

 

上記の物語は、高句麗に関する説話の中で、現代の韓国人の間に特に有名なものである。

「三国史記」のオリジナル・ストーリーに肉付けをした小説がいくつか後代に作られており、小説の内容がそのまま史実だと勘違いしている韓国人も多い。

小説の中だと、崔理の娘は「楽浪公主」と、あの太鼓は「自鳴鐘」と名付けられ、今の韓国ではかなり有名なワードとなっている。

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