2021年2月5日金曜日

高句麗

 の隆盛に伴い、玄菟郡は西へ向かって二回の遷都の末、107年に廃止したことは前述した。

 

漢は、玄菟郡を遷都し、真蕃郡と臨屯郡を廃止の上、楽浪郡に統合する。尚、濊族の首長らに自治を認めて楽浪郡に納税させた。

高句麗・沃沮・東濊が楽浪郡に服従していた濊族の勢力である。彼らの言語は大同小異で夫余系の言語だったと思われる。

 

濊の諸国の中で一番強大だったのは高句麗である。

高句麗は、漢の朝廷から自治を認められ、その首長は高句麗候として冊封を受けていたが、時々、自分たちの力が強くなると、入朝を怠り、朝貢をも拒否したりし、独立の色を強めることがあった。

高句麗という名称は、玄菟郡の高句麗県から由来したと見られる。高句麗の他、句麗、高麗とも呼ばれており、後期には高麗の名称が定着した。しかし、現代の韓国の教科書などでは敢えて「高句麗」の名称に統一している。その理由は、10世紀に王権が朝鮮半島で建国した高麗と区別するためである。

 

王莽が新王朝を立てた後、新と高句麗の間に摩擦が生じる。12年に匈奴出兵のために高句麗に出兵を命じたが、高句麗候騶がこれに応じなかったため、彼を長安へ連行して処刑したことがある。王莽は高句麗を「下句麗」と改名し、卑しめるなど、高句麗に対し、強硬的な姿勢を示し、服従させた。

この件は、「漢書」に記載されている内容だが、処刑されたという高句麗候騶は「三国遺事」に登場する朱蒙(チュモン)のことではなかろうとの説もある。「三国遺事」がどういう本なのかは初回に紹介してあるが、ここで少し、「三国遺事」の中の朱蒙に関する説話を紹介しよう。

 

「三国遺事」での記述

国史高麗本紀に、始祖東明聖帝の姓は高氏で、諱は朱蒙と云う。

夫余の解夫婁が東夫余へ逃げ、夫婁が去った後、金蛙が位を継いだ。

この時、太伯山の南方にある優渤山である女と出会って、尋ねると、「私は、河伯の娘で柳花と申します。名を解慕漱といい、自分が天帝の子だという男に誘われ、鴨綠江の家で私通してから戻ってこないため、父母が許諾無しに婚姻したことを咎めて私をここへ追い払いました」といった。

金蛙がその話を不思議だと思い、彼女を部屋に閉じ込めたら、日光が彼女のお腹を当てて懐妊し、一つの卵を産んだ。金蛙はその卵を豚や犬に遣ったが、食べようとしない。次は路に捨てたら、牛馬はそれを避けて通った。今度は野原に捨てると、鳥や獣が覆ってくれた。

金蛙は卵を柳花に返して、そこから朱蒙が生まれる。

朱蒙という名は弓矢の腕が優れるとの意味で、7歳になって既に矢を射れば百発百中だったという。金蛙は七人の息子がいたが、誰一人、朱蒙の器量には及ばなかった。長子の帯素が「朱蒙は人間の所生ではなく、既に始末しないと後患になる」と金蛙に進言したため、殺されるのを恐れ、朱蒙は夫余を脱出し、南下して卒本州に至った。そこで、高句麗を建国した。

 

「三国遺事」で引用元として登場する「国史」とか「檀君記」などはその出所が怪しい史書であり、中国と日本の史料とクロスチェックしてみても、「三国遺事」の内容を裏付けるようなものは存在しない。なので、載っているストーリーは民話の類いだと受け止めればいいと思う。

 

「三国遺事」13世紀末に高麗の高僧一然によって書かれた史書で、韓国の「三国時代」の故事・説話を含んでいる。その構成は次の通りである。

巻一:王暦・紀異

巻二:紀異

巻三:法興・塔像

巻四:義解

巻五:神呪・感通・避隠・孝善“

引用元:Wikipedia「三国遺事」

 

「三国遺事」よりも少し先に書かれた史書で「三国史記」というものがある。

この史書は、1143年から1145年の間で執筆されたと云うので、朝鮮半島に伝わる最古の史料になる。韓国の古代史、即ち、三国時代に関する韓国側の史料として現存するはこの二書しかなく、韓国の古文献の中ではもっとも重要なものである。

「三国遺事」が、説話中心で書かれているのに対して、『三国史記』は紀伝体に従い書かれており、もっと歴史書らしさがある。「三国史記」は「後漢書」、「三国志魏書」東夷伝などの中国史料と「日本書紀」を参考にして書かれたと思われる。然し、両書とも史料としての正確さは欠如しているし、創作と思われる部分が多く含まれている。結果的に、両書は中国の史料と照らし合わせると相違点が多々発見される。

「三国史記」を執筆したのは金富軾という人物で、彼は当代の儒学者でありながら、権力者でもあった。既に高麗が建国し、200年ほどが過ぎた時代であったが、彼は新羅系の末裔だったため、史書の執筆において新羅中心に偏ったとも後代には指摘されている。

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