2021年2月16日火曜日

高句麗の隆盛

 

313年に楽浪郡が廃止されると、高句麗は中国の隷属から完全に解放される。

当時の中国は、西晋の3代皇帝、懐帝が異民族の劉聡によって殺され、事実上西晋が滅んだ年である。中原は漢民族の皇帝が治める東晋と匈奴・鮮卑の異民族の王国が並び立つ大混乱期と言われる「五胡十六国時代」の幕が上がる時であった。それ故に朝鮮半島にまで統制力が及ぶような状態ではなかった。

 

「三国史記」には、この時期を「美川王」の治下と記されてある。

三国史記の高句麗王年表

 


美川王の名は乙弗という。王位に就くまでの彼の人生はドラマチックなものだった。

父は、第13代王の西川王の子の咄固である。伯父が、西川王を次いだ烽上王だが、烽上王は咄固に叛意ありとして彼を死に追いやる。乙弗は、自分も伯父に殺害されることを恐れて、都を逃れる。塩売りをしながら、身を隠していたが、倉助利という大臣が乙弗を探しだし、烽上王を廃位して彼を王位につけた。

 

美川王は即位して僅か2年後である302年に玄菟郡を攻撃し、8千人の捕虜を得た。

311年には、遼東郡の西安平を占領。313年に楽浪郡、314年には帯方郡を滅ぼした。

 

一方、中原では291年に起こった楊駿誅殺を皮切りに、八王の乱と呼ばれる皇族同士の大規模な内乱が勃発した。この大混乱に乗じて浮上した英雄が劉淵である。

彼は、南匈奴の単于於夫羅の孫であるが、父の代から漢人の姓である劉姓を名乗るようになった。これは先祖である冒頓単于が前漢代の漢王朝と兄弟の契りを結んで漢の皇族を妻に娶っていたことから由来する。

劉淵は、鄴の成都王司馬穎の下で官職に就いていたが、親族の劉宣らが自分を匈奴の大単于に推戴するという誘いを受け、3048月、匈奴の根拠地である左国城に移った。

同年10月、漢王朝の復興を大義名分として自ら漢王に即位する。そして、30810月には、皇帝に即位する。

3098月から、晋の都である落陽を落とすべく侵攻するが、生前に偉業は達成できず、病に見舞われて3106月にこの世を去った。

 

劉淵の死後、子の劉聡が落陽を陥落し、司馬鄴が長安で起こした亡命政権をも316年に鎮圧して西晋は完全に滅んだ。劉淵が漢を建国した30410月から西晋の朝廷と抗争した一連の事件を「永嘉の乱」と呼ぶ。

 

高句麗の美川王が遼東郡・楽浪郡・帯方郡を攻撃していた時期の幽州刺史は王浚だった。

王浚は当時、劉淵配下の石勒と激戦を繰り広げていたため、東方辺境の三郡を援助することはできなかったであろう。

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