311年、幽州の支配者だった王浚は、姻戚である崔毖を東夷校尉に任命し、遼東を任せた。
崔毖は、「三国志」で有名な崔琰の末裔だと云う。
314年、王浚が石勒に殺害されると、頼るところが無くなった崔毖は遼東で自立を目論む。317年には、司馬睿を帝位に推戴する参画にも加わった。
一方、遼西を本拠地としていた鮮卑・慕容部が大人慕容渉帰の下で270年頃から、遼東に進出した。西晋に服従していたが、281年から従属を拒んで昌黎郡を侵攻するなど、独立の色を強めていった。
慕容渉帰の子、慕容廆が大人になってから、慕容部は更に強大になる。
崔毖は、高句麗と鮮卑族の段部・宇文部を誘い、慕容部を伐とうとしたが、慕容廆はこれを撃退した。身の危険を感じた崔毖は、319年に高句麗に奔った。
高句麗に亡命した後の崔毖の活躍については、「三国史記」・「三国遺事」などには記されていないが、中国の律令を高句麗に伝え、国家体制を築くのに貢献したと推測される。
現代の韓国では、崔姓は4番目に人口の多い名字である。(約240万人)
40余りの本貫が存在しているが、その殆どは、王氏高麗の人物を始祖としているので、崔毖とは関係ない。
昌黎・遼東の二郡を平定した慕容廆は、現地で確固たる地盤を築いたので、その実力を認めた西晋の愍帝(司馬鄴)は昌黎・遼東の国公に任じて懐柔した。
劉聡によって西晋が滅ぶと、琅邪王司馬睿は318年、帝位について東晋を建国した。
慕容廆は東晋の朝廷に恭順の意を示し、官爵を受けた。
遼東を占めた慕容部は、高句麗と対立するようになり、数回戦闘を交えた後、美川王は和睦を乞い、慕容廆はこれを受けた。
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